異分野融合について

2018年2月の初日。もう2月か。おとといと昨日で文理融合シンポジウムが終わり、考えさせられることが多かったので、忘れぬうちにメモを残します。

文理融合、異分野融合、分野横断、などなどいろいろな言い方がある。専門家同士の「ゆるい歩み寄り」と「微細な気づき」がきっかけになり「大爆発」することが面白い、ということは確実に言えそうなことだ。すぐに思いつく例が複数ある。

一つは、明月記のオーロラ研究で、和歌などを仕事にする学生(武居氏)が科学者向けに丁寧に読み下しを披露してくれていたときのこと。又有赤気(再びオーロラが現れた)という言葉を聞いた瞬間、地球物理(私)と太陽物理(磯部氏)の専門家の脳に電流が走った。これで、一度爆発すると止まらないコロナ質量放出の研究が進むことを瞬時に確信できたことがあった。(その後、樹木年輪から復元される太陽活動と、爆発的な太陽との関係は、ランダムではなく予想通り極大期に多いのだろうかどうか、ということを調べることになり、論文にもニュースにもなった。)

もう一つの例は、星解という本に残された神秘的なオーロラ絵図を見ながら江戸時代の専門家(岩橋氏)と話しているときのこと。合わせて一緒に読むとよいという新たに見つかった日記の文章を一緒に読んでいて、白気一筋銀河を貫き(天の川をオーロラが貫いた)、という言葉を見た途端、これは大ごとだ、と大爆発することになる。天の川は天頂に出ていたため、京都の天頂にまでオーロラが広がっていた証拠となる記述だ。(だからこそオーロラが巨大で見開きで扇形に描いたし、オーロラの下端まで見えて、そこは黒く色をつけていたのだ。)答えがわかると、シンプルに見えたオーロラ絵図に、これほどヒントが散りばめられていたのか、と後から感動もついてきた。この研究は、史上最大の磁気嵐のリアルな姿を知る一歩になった。

異なる磁場を持つプラズマが接触すると爆発する。これは太陽フレアやオーロラ爆発の原因だが、ちょっと文系と理系の専門家同士も、もしかしたら似たものがある、とたとえるのはどうかな、と思ってみたりする。

シンポジウムで特に多かった意見は、私たちの分野は始まりから文理融合であり今も変わらない、というものだった。たとえば地理学、土木関係、経済学。確かにそうで、いずれも大いに参考になるものばかりである。私が知りたいことは、おそらく、それらの既存の文理融合分野に匹敵するか、もっと面白い学問分野が新たにあるのかどうか、ということなのではないか、とも思える。

上に挙げた個々のオーロラ研究の例で味わってしまった面白さのミソは、ほかにもある。文理融合、という言葉と相性のいい双方向な側面だ。寺島先生が「科学」に書かれたような、定家をより深く理解することへの、明月記オーロラ研究の貢献。あるいは星解のオーロラ絵図に科学のメスが入ったことによる、江戸時代の絵図や知識人についての理解が深まったこと。まさしく日曜美術館で取り上げてほしい話、と言い切ってしまいたい。

個々の研究はよいが、団体としても融合するべし、というコメントがあった。たとえば国文学研究資料館と極地研究所、という関係のことだ。これは書類上でそう見せるとかいう些末なことは置いておいて、実態として非常に難しそうだが、おそらく、私たちの行っている知道楽(研究所をまたぐランチセミナー)のような「ゆるい歩み寄り」を、団体として暖かく見守りつつ行っておくことが重要だ、ということに置き換えておいてはどうか、と思っている。たとえば京都大学では、そういう文化が脈々と流れ続けているような話を、シンポジウムでは多く聞いた。だからこそ、そんな融合的な話で活躍する人を思い浮かべると京都大学にぶつかるのだと思う。個々の研究において、双方向の深まりを見出すことこそが、尖ったプレイヤーたちの相互作用を介して脳の大爆発を引き起こすのだが、そこに知の豊かさの進展があり、感動の種があるからこそ、ニュース性も高くなるのだと思う。

膨大で広範な知識と裏付けを持って説得力ある持論を見事に展開する先生たちにお会いすることができたこともシンポジウムの大きな収穫だ。ほとんど知の巨人と言える。それなのに私はシンポジウムの冒頭で、知の巨人の時代は終わった、という発言をしてしまった。恥ずかしいことであり、はっきり言って失礼極まりないので弁解の仕様もない。その発言をしてしまったココロは、「微細な気づき」(又有赤気や、白気一筋銀河を貫き)は、既に一人で文理融合が完成している知の巨人の広大な守備範囲すらも超えて、むしろ平凡に近い専門家同士が、やみくもにパイレーツオブカリビアンみたいにカキンカキンやっている間に、ぽこぽこ生まれ出てくるものであって、おそらくそこらじゅうに無数に転がっているものであり、その微細な気づきを通して広がる私たち人間たちの知という世界は無限ではないか、ということである。人工知能を含むコンピュータアシストによる情報収集や情報交換が容易な今の時代では、特に重要なことではないかとも思えるのだ。

こういうのはシニアを適切に巻き込むのがいい、というアドバイスを頂いた。確かに。しかし学生の参加なしに未来はない。文理融合では学生の将来が担保されそうもない、という不安がある。新知見を得たとして論文を投稿するにも、受け入れてくれるジャーナルが見あたらない、という苦労は繰り返される。安全で健全な研究テーマは持ちつつ、余裕が有り余っていれば文理融合のような冒険的な研究テーマにも手を出す、というのが普通の学生にとっても、指導教員にとっても、精神安定上も、良いことかもしれない。